■風土舎についてご案内していきます

グループ風土舎は、1978年(昭和53年)岩波映画製作所より、児童劇映画、社会教育映画等を共同出資で製作しないかとの提案があり、プロデューサー・監督・シナリオライターの3人の芸術化グループの会社として発足しました。共同製作はその後順調にすすみ、国際映画祭への招待上映をはじめ、文部大臣賞、厚生大臣賞、優秀映画鑑賞会、日本映画ペンクラブ等、数々の賞を受賞しました。
あたたかい眼差しで庶民の生活を見つめたその作風は、この世界に新しい新風を吹き込みました。

映画
小さな家族
(ヒューマンシネマライフ製作)
文部大臣賞・ベルリン国際映画祭特別招待作品
監督:瀬藤 祝 脚本:田向正健 主演:丹阿弥谷津子
魔女の宅急便
(アニメーション)
宮崎 駿 監督作品
グループ風土舎コーディネート
風の子どものように厚生大臣賞
ギリシャ・テセロニキ映画祭
インド・エジプトカイロ映画祭等招待上映
中国金鶏百花節日本映画代表団招待上映
監督:瀬藤 祝 脚本:関 功・瀬藤 祝 音楽:丸谷晴彦
プロデューサー 三角清子 主演:犬塚 弘・岸田今日子・岩松 恵
大阪の章二クン青春ロードムービー
(東京シネマアルゴ新宿・大阪・札幌洋画系公開)
監督:瀬藤 祝 脚本:瀬藤 祝・園田英樹 音楽:丸谷晴彦
プロデューサー 久保道子・三角清子
主演:河合さよみ・山崎吾郎・佐川満男・浅利香津代・平田満
微笑みを抱きしめて製作 鹿児島県川内市
文化庁優秀映画作品賞
監督:瀬藤 祝 脚本:関 功 プロデューサー 三角清子
主演:勝野洋・宮崎淑子・樹木希林・前田耕陽・宮尾すすむ


 
 

舞台
赤い陣羽織より

赤い陣羽織
(中央戯劇学院)
日本・中国共同製作 文化庁舞台芸術高度発信事業助成作品
原作:木下順二 演出:瀬藤 祝
主演:雷 格生・柏 寒・蘭 天(中国俳優)
カッパの目玉
(青山円形劇場)
創作民話・ドラマティックダンス
原作:さねとうあきら 演出:瀬藤 祝
赤い陣羽織
スペースゼロ
木下順二民話劇の夕べ 日中共同製作
演出:高瀬精一郎・瀬藤 祝 主演:雷 格生・柏 寒・蘭 天(中国俳優)
カッパの目玉
(シアターX劇場)
サリーナ・マヤ主演


 

瀬藤 祝

1930年生まれ。喜多流能楽師、瀬藤和太郎氏の長男
山口県下関市に育つ。51年に劇団前進座文芸演出部に入り、映画「箱根風雲録」で山本薩夫監督の助監督をつとめ映画の世界へ。戦後第1期独立プロ運動に参加、関川秀雄、家城巳代治に師事。その後、東映教育映画部を経てフリーとなる。78年、岩波映画製作所と短編映画を共同制作するためにグループ風土舎を創立した。


 
  20周年の際に寄せられたメッセージより


 
佐藤 忠男(映画評論家)

「微笑みを抱きしめて」はすぐれた映画である。ふつうの人間の、ふつうの人生における誠実さをきちんと描いて、みるものにいきる勇気を与えてくれるからだ。家族の愛と信頼の深さ、美しさ。なつかしさのあふれる地域社会。こんなにやさしい良い映画があるという事は日本映画の誇りだと思う。ぜひ広く見られてほしい。

小口 禎三(岩波映画製作所 相談役)

風土舎が生まれる一年くらい前のこと、岩波の試写室で瀬藤さんの映画をはじめて見た。東宝文化映画時代からの友人で風土舎の創設者の一人である多胡隆さんと一緒だった。
 その頃岩波では自社の作品だけでなく、広く同業者の優れた作品も配給したいと考えて岩波映像販売という別会社を創ったばかりだった。そしてそれまで主として作ってきた科学映画や学校教材映画の外に、児童映画とか社会教育映画も作りたいと思っていた。だが、この種の映画は、ともすれば教育臭が強くて、私は時々ついていけないことがあった。試写室で見た映画は「思いやり」という三十分ぐらいの短編劇だったが、美しい映像の中に人の心にしみる暖かさがにじみ出ていて、とても詩的な作品だった。私達の身辺にもこんなに素晴らしい作品を作る人が居るのかと驚いたことを覚えている。
試写が終わって多胡さんから瀬藤監督のことを詳しく聞いた。そしてこのようなライターや監督と一緒に仕事をしたいと話し合ったのが、風土舎創設のきっかけとなってゆく訳だが、その多胡さんはもういない。今、生きていたら今日の日をドン何か喜ばれたことだろう。グループ風土舎はそんな多胡プロデューサーと、瀬藤監督と、「思いやり」の脚本関功氏の集まりから誕生した。

 
 
 
 
 
20周年を経て新たに21世紀へ向けて
〜新世紀に向けての抱負〜
グループ風土舎代表 瀬藤 祝

いささか照れております。創立20周年と申しましても、風土舎は小さなプロダクション、それもボクの思いとこだわり、我侭だけで映画を造りつづけて参りましただけに、いざお祝いをしていただくとなると、何とも不似合いのような気がして恥ずかしいのです。
これはひょっとするとボクの最後の花火なるのかもしれませんと、ある方にお話したら叱られてしまいました。「お前の最後の花火、何度聞いたことか!」花火を辞書でひもとくと、こうありました。火をつけ、破裂させ、燃焼させ、光・色・音を楽しむ。打ち上げ花火に仕掛け花火。敵もさるもの、照れかくしのボクの様をすっかりお見通しのようで、ああ恥ずかしい。ついでに花火のはなのあたりを辞書でみていくと、春は花時、鼻曲がり、花恥ずかしい。鼻水たらして花道をゆく。嗚呼・・。
十数年前に、社歴にこんなことを書きました。自由気ままに、何処にも媚びずにシコシコと、手作りの映画にこだわってゆきたい。
大言壮語のようですが、今ふりかえってみると結構頑張っているような気が致します。劇映画も3本つくりました。それも本当に何処の配給会社の手も借りず、東京では新宿のある小さなホールを借りて、月に3日間、上映をシコシコと続けていました。グループ風土舎はまだまだ20才の青春たけなわ。恋もしたい、映画もつくりたい、舞台もやりたい。ああ、とうとう化けの皮がはがれてしまいました。夢、果てしなく・・・。

 

今後の企画・21世紀に向けて

  • 花も実もあり(千本きくよ原作・らいらっく文学賞)

    北海道深川市が舞台。大地に腰を据え、農業に情熱と愛情を注ぐ一家の姿をユーモラスに描く。(深川で映画をつくる製作準備世話人会)

  • 廻れ風車(青春ドラマ)

  • あの夏・この子たちがいた

  • GONZA

    11才での薩摩の港を出航、漂流。やがて帝政ロシアの女帝に学者として迎えられ露和辞典を編纂したゴンザとソウザの望郷の物語。ジョン万次郎は帰ってきたが、ゴンザは再び日本の土を踏まなかった。ロシアから里帰りしたゴンザの辞典、そのなぞときドラマと言えるでしょう。

  • 遅ればせの愛

    ボクが非国民と言われた頃。1945年の夏。関門海峡、下関。父は能楽師。敗戦間近いこの街でなぜ父は、フラフラ・フラフラ。なぜ
    ボクが非国民少年と呼ばれた頃の・・・我が故郷下関を舞台にした映画。


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    〜〜〜ご報告〜〜〜

    1998年に行われたフォーラム
     
     
     
    グループ風土舎がお届けする21世紀最初の企画!
    ”ゴンザとソウザ”出版! 
    〜ペテルブルグ 謎の首像〜 
    (出版社ー新読書社)

     
    あらすじ
  • 1728年、八代将軍吉宗の時代、薩摩(現鹿児島)のある港から、17人の乗組員を乗せた船が大阪の薩摩藩邸に向けて出帆した。しかし、その船は嵐に遭い、6ヶ月も洋上を漂流してロシア領カムチャッカ半島にたどりついた。
  • そこでコサック隊の襲撃をうけて15人が殺された。生き残ったのは、舵取りの父の手伝いでこの船に乗り込んでいた11歳のゴンザと商人のソウザ(35歳)であった。
  • シベリアに滞在ののち、モスクワをへて1733年、ゴンザとソウザはロシアの首都ペテルブルグへ送られる。時の女帝アンナ・ヨアノヴナに謁見、手厚いもてなしをうけた。
  • この時アンナ女帝はゴンザがロシア語をあまりにも上手に話すのにおどろいた。ゴンザとソウザは起居をともにしながら科学アカデミーで学び、女帝の命により開設された日本語学校の教師になった。そこで、18世紀前半のロシアで最高の学識者の一人であるアンドレイ・ボグダーノフに出会う。
  • 1736年、ソウザ没す。享年43歳であった。ひとり異国に残されたゴンザはボグダーノフ指導の下に「新スラヴ・日本語辞典」ほか5点の著作の執筆にうちこみ
  • 1739年12月、ペテルブルグは史上まれにみる寒波におそわれた。青春のまっただなかを駆けぬけ、ゴンザは21歳の生涯を終えた。
  • 残された6つの著作はゴンザの生きた証である。ゴンザとソウザは自らの数奇な生涯を何も語ってくれない。しかし、ゴンザが書残した著作によって、彼らのふるさとでの生活が言霊で甦ってきた。

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    江戸時代にロシアに漂流し露日辞典を編んだ青年ゴンザとソウザ彼らのロシアでの生活の詳細は不明である。運命に翻弄された二人の異国での人間関係に瀬藤監督が挑む。今夏出版予定!
    乞うご期待!


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